FAZER LOGIN異変は、予告もなく現れた。
東亜リンクス商事のフロアに足を踏み入れた瞬間、
綾乃は、空気がわずかに変わったのを感じた。挨拶が、短い。
視線が、合わない。 昨日まで普通に声をかけてきた部下が、妙によそよそしい。(……何かが始まった)
会議室で配られた追加資料は、昨夜まで存在しなかったはずのものだった。
数字は整っている。 整いすぎている。「この修正、誰の指示ですか?」
綾乃がそう問うと、部長は一拍だけ間を置いてから答えた。
「上からだ。触るな」
“上”。
その言葉が、すべてを物語っていた。昼過ぎ。
社外の取引先から、立て続けに連絡が入る。――九条ホールディングスとの関係を、どう考えているのか。
――夫婦である以上、利益誘導ではないのか。まだ何も表に出ていない。
それなのに、話は“出来上がって”いた。(情報が、漏れている)
しかも、内部事情を知っている者の手口だ。
その夜、九条邸。
綾乃が書斎に入ると、
玲司はすでに電話を切ったところだった。「東亜リンクス側にも、圧が来ているな」
「……あなたのところも?」
「ああ。金融機関が一斉に動いた」
互いに視線を交わす。
――外部からの圧力。
だが、その動きは統制が取れすぎている。「内部に、いるわね」
綾乃の言葉に、玲司は否定しなかった。
「問題は、どこまで知っているかだ」
机の上に置かれた一通の封筒。
差出人不明。中には、写真が入っていた。
綾乃と玲司が、並んで歩く後ろ姿。
仕事用の資料を受け渡している場面。 ――完全に、“共闘”の証拠。「……撮られてる」
「見せるために、な」
脅し。
同時に、誘導。“夫婦であること”を、武器にするか、それとも、弱点として突くか。
相手は、こちらの関係性を試している。
「もし、私が降りれば?」
綾乃がそう言うと、玲司は、即答しなかった。
「君が降りれば、疑惑は俺一人に集中する」
「あなたが切られれば、私は“裏切った妻”になる」どちらも、致命的だ。
夫婦という関係は、盾にもなる。
だが同時に、一撃で貫かれる標的でもある。「……綾乃」
玲司が、低く言った。
「君を疑っていないと言えば、嘘になる」
綾乃の胸が、わずかに痛む。
「私もよ」
静かな声だった。
「あなたが、全部を握っている可能性を、捨てきれない」
沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は、決裂ではなかった。
互いに“疑っていることを隠さない”という選択だった。「だからこそ、だ」
玲司が続ける。
「今は、切り離すより、一緒に立った方がいい」
信用ではない。
計算だ。それでも――
背中を預けるしかない局面が、確実に近づいている。その夜、
綾乃は自室に戻り、鍵をかけてから小さく息を吐いた。(裏切り者は、まだ見えない)
だが、確かにいる。
そして、その人物は―― 私たち夫婦の、どちらかを“切り離そう”としている。同じ側に立ったはずの夜から、二人の足元には、確かに亀裂が走っていた。
それでも、進むしかない。
――夫婦であることが、まだ武器であるうちに。
綾乃は、部屋に戻ってからも眠れなかった。
ベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取る。画面に表示された通知は、一件だけ。
差出人不明。
本文なし。 添付ファイルあり。嫌な予感が、背筋を這い上がる。
タップすると、表示されたのは一枚の画像だった。
それは――
九条邸の書斎で、机を挟んで向かい合う自分と玲司の姿。しかも、今日の会話の“核心”が、聞こえていたとしか思えない角度と距離。
(……なぜ、ここまで)
画面を閉じた瞬間、続けて届いた短いメッセージ。
『ご夫婦で動かれるのは、あまり賢明ではないと思います』
その文面に、綾乃は、はっきりと理解した。
――これは忠告ではない。
――警告だ。夫婦であることが、誰かにとっては、
“切り崩すための材料”になっている。綾乃は、静かに息を吐いた。
(もう、後戻りはできない)
そして、まだ知らなかった。
この結婚が、自分を守る盾になるのか、
それとも――真っ先に狙われる弱点になるのかを。開け放たれたドアの向こうを見ると、父と母が心配そうな顔で叶翔を叱っていた。豪華なパーティー会場には相変わらず大勢の招待客が集まり、賑やかな話し声と音楽が響いている。しかし、その一角だけは空気が違った。玲司と綾乃の表情には明らかな焦りと安堵が入り混じっている。叶翔はしょんぼりと肩を落とし、二人の前で小さくなっていた。心春は和真にお礼を言うのも忘れて、父と母の元へ駆け出していた。「ママ!」泣きながら走る娘の姿を見つけた綾乃は、すぐにしゃがみ込んで両腕を広げた。次の瞬間、心春は勢いよく母の胸へ飛び込んでいた。父にはこっぴどく叱られ、母の腕に抱かれてまた泣いた。幼い心春にとって、迷子になった恐怖は想像以上に大きかった。見知らぬ廊下。見知らぬドア。どこへ行けばいいのかもわからない不安。張り詰めていた気持ちが、両親の顔を見た瞬間に一気に溢れ出したのだ。母の綾乃は心春の体をギュッと力を込めて抱きしめてくれた。「心配したのよ」震える声でそう言いながら、何度も娘の背中を撫でる。玲司もまた安堵していた。だが、父親として叱るべきことは叱らなければならない。「勝手にいなくなったら駄目だろう」厳しい声だった。しかしその目には娘を失うかもしれなかった恐怖が滲んでいる。やがて心春が落ち着いてくると、父の玲司が心春の頭を撫でながら、さきほどとは打って変わって優しい声で聞いた。「心春、どこへ行っていたんだ?」心春は玲司の顔を見ると言った。「エレベーターで知らない廊下にいたの。そしたら、かんざきかずまがここまで連れてきてくれた」その名前を聞いた玲司と綾乃は目を見開いて顔を見合わせた。一瞬だけ空気が止まる。神崎和真。その名前には二人にとって複雑な過去があった。だからこそ驚いたのである。心春が指さす方に、財界人たちと談笑する和真の姿を見つけると、玲司は大股で歩いて行った。背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いていく。周囲の財界人たちも玲司の姿に気付き、自然と道を開けた。綾乃と心春が見ていると、玲司が何かを言い手を差し出して和真と挨拶をしているのが見えた。和真も穏やかな表情で応じている。遠くて会話までは聞こえなかったが、少なくとも険悪な雰囲気ではなかった。綾乃はホッとして心春の顔を見た。「和真が助けてくれたの?」心春は得意げになって言う
鷹宮邸では、心春が使用人に買い物リストを渡して、今夜の料理のメニューについて説明していた。広々としたダイニングには柔らかな午後の日差しが差し込み、磨き上げられたテーブルが美しく輝いている。心春は何度もメニュー表に目を落としながら、細かな確認をしていた。「前菜はこれでお願い。魚料理は少し軽めにして、メインのお肉は和真さんが好きな焼き加減で」使用人は丁寧にメモを取りながら頷く。今夜は久しぶりに和真と、キャンドルディナーを夫婦二人だけで楽しもうと思っていた。最近はお互いに忙しく、ゆっくりと二人だけで食事をする機会が少なかった。だからこそ、今日は特別な夜にしたかった。祖父である正隆は、心春たちと食事の好みが合わず、「二人で楽しめ」と言い、自分は外食すると言っていた。その言葉を聞いた時、心春は少し申し訳なく思ったが、正隆は本当に気にしていない様子だった。むしろ孫娘夫婦の時間を作ろうとしてくれているのだろう。使用人を買い物に出すと、今夜のことを考えて思わず笑顔になった。二十五歳も上の和真と結婚して三年。世間は驚いた。親族の中にも反対する人はいた。周りはとやかく言っていたが、心春は幸せだった。和真はいつも優しく、決して心春を子供扱いしない。困った時は支えてくれる。けれど必要以上に干渉もしない。そんな距離感が心地よかった。ふと、心春は窓の外を眺めた。青空を見ているうちに、昔のことを思い出す。和真は、心春の母、綾乃の幼馴染だった。だが、玲司と綾乃が結婚前に何かあったらしく、心春はほとんど会ったことがなかった。それでも、一度だけ強く記憶に残っている出来事がある。まだ幼かった頃のことだった。ある日、両親に連れられて叶翔と一緒に行ったパーティーで、心春は迷子になっていた。財界人や政治家たちが集まる大規模なパーティー。会場となったホテルはまるで宮殿のように巨大だった。大きなホテルの会場から、退屈していた叶翔と心春は抜け出していた。子供だった二人にとって、大人たちの会話など面白くない。巨大なホテルは、叶翔と心春にとっては探検基地のようで、縦横無尽に走り回っていた。豪華なロビー。長い廊下。静かなラウンジ。見るもの全てが冒険の舞台だった。しかし、夢中になって走り回っているうちに、ふと気づくと叶翔の姿が見えず、心春はその場で立
神崎邸を出ると、和真は駐車場に停めてあった真っ赤なロードスターへ向かった。夕暮れの光を受けて輝くボディは、今でも和真のお気に入りだった。運転席に乗り込み、シートに深く腰を下ろす。キーを回すと、心地よいエンジン音が静かな空間に響いた。この車は、自分が若いころから特に気に入っていて、それを知った心春が、去年の誕生日にプレゼントしてくれたものだった。当時、和真は本気で驚いた。心春は普段から人の話をよく聞いているが、何年も前に何気なく話した車のことまで覚えていたのだ。そのことを思い出し、和真は自然と口元を緩めた。ロードスターは滑るように夜の街へ走り出す。信号待ちの間、和真はハンドルに手を置いたまま、さきほどの父との会話を思い出していた。神崎財閥の未来。兄の壮真。そして鷹宮財閥の当主の座。父は本気で期待しているのだろう。自分が鷹宮財閥の当主になれば、神崎財閥を助けてくれると。だが、和真にはそんな気はなかった。和真は口角を上げて笑った。「父さん。俺が当主になったからって、壮真兄さんを助けるとは限らないよ」和真は独り言をつぶやいた。窓の外を流れる街の灯りが、まるで別世界のように見えた。その頃。和真の兄である、神崎壮真は歯ぎしりして溜飲を飲んでいた。神崎財閥本社の社長室。高級家具で揃えられた広い部屋には重苦しい空気が漂っている。壮真の目の前には、今回の大型貿易案件に関する資料が山積みになっていた。秘書が緊張した面持ちで報告を続ける。「今回の貿易も、先方は九条コーポレーションで決めたようです。こちらには何の連絡もなく、担当者とも連絡が付きません」壮真の秘書が、顔色を窺うように恐る恐る言った。その瞬間、壮真の額に青筋が浮かぶ。壮真は近くにあった卓上のカレンダーを手に掴むと、秘書に向かって投げつける。秘書は避けずにそのカレンダーが体に当たって落下するのを見ていた。「社長………」秘書もそれ以上何も言わず、一礼して社長室を出て行った。扉が閉まる。壮真は歯ぎしりしながら怒りを抑えようと、大きく肩で息をした。「クソッ!なぜ、いつも九条なんだ」今回の貿易の話を落札したのが、九条玲司の息子、叶翔だったことが、壮真にとっては屈辱以外の何物でもなかった。若造。そう見下していた相手に、またしても敗れたのだ。「あんな若造に負ける
久しぶりに呼び出された和真は、神崎財閥の私邸へと車を走らせていた。都内有数の高級住宅街に建つ神崎邸は、幼い頃から見慣れた場所だった。しかし今となっては、自分の家という感覚は薄れている。巨大な黒塗りの門がゆっくりと開く。和真は無言のまま門をくぐった。神崎財閥の私邸は、長い歴史を持つ名家らしく重厚な雰囲気に包まれていた。広大な敷地には美しく整えられた庭園が広がり、邸宅はまるで美術館のような威厳を放っている。だが、和真にとっては懐かしさよりも面倒くささの方が先に立っていた。父親が自分を呼び出す理由など、おおよそ見当がついていたからだ。鷹宮財閥の次期当主として鷹宮家に養子婿として迎えられてから三年。和真は間もなく五十歳を迎えようとしていた。一方で妻の心春はまだ二十四歳。今年で二十五歳になる。二十五歳差。普通ならば親子と言われても不思議ではない年齢差だった。それでも心春は変わらず自分を慕い、鷹宮家で穏やかな日々を送っている。和真はそんな妻を思い浮かべながら屋敷へ足を踏み入れた。最近では、九条家でも大きな出来事があった。心春の双子の兄である叶翔が結婚したのである。相手は南條財閥の孫娘である櫻羅。財界でも大きな話題となった結婚だった。叶翔夫婦は九条家の私邸の敷地内に新居を構え、順風満帆な新婚生活を始めている。さらに叶翔は九条コーポレーションのCEOとして辣腕を振るっていた。若くして巨大企業を率いるその姿は、まさに次代の後継者そのものだった。それに比べて自分はどうだろうか。九条玲司の長女である心春と結婚し、鷹宮姓を名乗り、鷹宮財閥の業務も担っている。実質的には次期当主として動いていると言ってもいい。しかし――いまだ正式に当主の座は譲られていなかった。そのことが神崎財閥にとっては不満だった。神崎家としては、和真が鷹宮財閥の当主になれば様々な面で利益がある。神崎と鷹宮。二つの財閥の結び付きはさらに強固になる。だからこそ神崎家は、ことあるごとに和真へ発破をかけてきた。だが当の本人である和真は、「まだ早い」「鷹宮の当主は何も言わない」そんな消極的な返答ばかりしていた。その態度に業を煮やしたのが、神崎財閥当主であり和真の父である神崎重雄だった。だからこその今回の呼び出しである。使用人に案内され、和真は神崎邸のリビン
鷹宮財閥、私邸。東京の夜景を見下ろす高台に建つその屋敷は、夜になるとまるで巨大な城塞のような威容を見せていた。門の外からでも感じられる重厚な空気は、長い歴史と莫大な財力を持つ一族の本拠地であることを否応なく物語っている。敷地内には手入れの行き届いた庭園が広がり、警備員たちが静かに巡回している。夜風に木々が揺れる音だけが聞こえるその空間は、財界の重鎮が住まうにふさわしい威圧感を放っていた。九条綾乃の父である鷹宮正隆は、窓の外に広がる夜景を眺めながら、昔のことを思い出していた。九条玲司と綾乃の間に双子が生まれたときのことだ。男の子の叶翔と、女の子の心春。その誕生は、九条家だけでなく鷹宮家にとっても大きな喜びだった。しかし同時に、後継者問題という避けて通れない話題も生まれていた。当時の正隆は、「心春は九条家で、叶翔には鷹宮家を継がせる」と考えていた。鷹宮財閥を存続させるためには、優秀な男児である叶翔を迎えるのが最も自然だと思っていたのである。だが、玲司はその考えに首を縦には振らなかった。やはり男の子である叶翔を九条家に残し、女の子である心春が将来結婚した際、その夫となる男性に鷹宮家を継がせるべきだと主張した。正隆も簡単に引き下がるつもりはなかったが、双子の父親である玲司の意思は固かった。財界でも屈指の交渉力を持つ男が、家族のこととなればなおさら譲らない。最終的に正隆は折れ、「心春が早く結婚して鷹宮を継いでくれ」と渋々ながら納得したのだった。そして月日は流れた。心春が二十二歳になった頃、家族を驚かせる出来事が起きた。綾乃の幼馴染であり、神崎財閥の御曹司だった神崎和真と結婚すると言い出したのである。しかも和真は、綾乃と同年代の男性だった。母親と同じ年齢の男性との結婚。その話を聞いた時は、何事にも動じない九条玲司でさえ言葉を失った。普段ならどんな問題にも即座に答えを出す男が、珍しく沈黙したのである。もちろん周囲は反対した。綾乃も心配した。正隆も猛反対だった。年齢差だけではない。神崎和真という男に対し、それぞれ複雑な感情を抱いていたからだ。しかし、どれだけ説得しても心春は折れなかった。彼女は真っ直ぐ父親を見つめながら言った。「パパは私の幸せを願っているんじゃないの?」その一言は玲司の急所だった。世界中の企業相
結婚式からしばらくの月日が流れた。あの日、八芳園の美しい庭園で永遠の愛を誓った叶翔と櫻羅は、ようやく穏やかな日常を手に入れていた。櫻羅も少しずつ九条家での生活に慣れ始めている。最初の頃は、広すぎる屋敷に戸惑い、使用人たちに囲まれる生活にも緊張していた。だが綾乃は実の娘のように接してくれたし、玲司も口数こそ少ないものの、櫻羅を大切な家族として迎え入れていた。今では朝食の席で自然に笑顔を見せることも増えている。現在は一時的に九条家の本邸に住んでいるが、近いうちに新しい家へ移る予定だった。綾乃と櫻羅は何度も反対した。「せっかく家族になったんだから、一緒に住めばいいじゃない!!」そう言ったのだ。だが玲司と叶翔が揃って譲らなかった。玲司は真顔で、「同じ家に住んでいたら、櫻羅が気を遣うだろう」と言い切り、叶翔も当然のように、「何かあった時にすぐ駆けつければいいだろ」と返した。結局、その押しの強さに綾乃と櫻羅が折れる形になった。そして広大な九条家の敷地の一角に、新居が建設されることになったのである。叶翔は最初、「櫻羅の好きにデザインしていい」と言っていた。しかし櫻羅は困り果ててしまった。高級建築雑誌を見せられても、海外の有名建築家の資料を並べられても、どれも現実感がなかった。何十億円もする豪邸など、自分には想像もつかない。そんな櫻羅を見て、最後は叶翔が提案した。「じゃあ、温かい家にしよう」その一言で決まった。石造りの外壁。木の温もりを感じられる内装。広い暖炉。大きな窓。花に囲まれた庭。カントリー調の洒落た豪邸。豪華ではあるが、どこか温かく、帰ってきたくなる家。完成予想図を見た櫻羅は思わず笑顔になった。「ここなら住みたい」そう言ったのだった。一方で、友人たちもそれぞれの道を歩み始めていた。颯太と悠臣は結婚式が終わると、再びヨーロッパへ飛び立っていった。颯太はノヴァ・テクノロジーズの再建のため。レオン・クロフォードが残した混乱はまだ完全には収束していない。若いながらも必死に経営の立て直しに奔走していた。悠臣もまた、インペリアル・ノクティス・グランドホテルを神無月グループとして運営していくため、世界中を飛び回っている。時折送られてくるメッセージには、「また真紀ちゃんに怒られた」だの、「







